天雅日記令和版 

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30、見捨てることも、考えた

裏門を出て、食堂への道すがら、ふと足を止めた百式は、思いつめたようにその口を開く。

百「この3日間考えました。それで仕事中はロッカーから携帯は出さないことにしたんです。これでどうでしょうか?」
俺「交渉できる立場か!文句が有るなら携帯も取り上げる。異論は無いな?」
百「今メールをしているのは天雅先生だけです。だから、ウェブを停めると困るのは先生でしょう?」
俺「裁判に負けて困るのはそちらのはず。俺は手を貸してるのに過ぎないし、6月(2009年)にでもなれば君の借金も終わる。それ以後は貸し付けた裁判費用と雑費は取り立てるよ。不動産を差し押さえてもね」

この言葉がウソでないことは、百式自体が良く理解していたようで、うつむいたまま体が小刻みに震え始めている。
この1年、俺がキレて、対峙する者を法律で叩き伏せているところを間近で見ていたのは、ほかならぬこの百式である。
本気で怒り出したときには、誰よりも面倒な相手だと教えたはずだが、まだ解っていないのか。それとも大作経の選民思想は、ここまで判断を狂わせるのか。

その後、この1年間の恨みが口をついてほとばしる。
裁判の進展に問題が出るので割愛するが、一つだけ言わせてもらうと、人はそうは変わらないものである。

じっと聞き入る百式。

人格否定まがいのことも言うが、反論する資格が無いのは、百式が一番良く知っているはずである。
最後に俺は、母親代わりの祖母に対して、ここまでその教育方針に大して指摘されたことは悔しくないのかと尋ねる。

たとえば、百式の母親代わりの祖母は、男同士が喧嘩するのは仕方が無いことだとは教えたが、百式自身はその教育のために、暴力を否定する人間に対しても、意見が衝突した際には、最後は暴力で服従させることも仕方が無いと履き違えているときがあった。

そのため、今でも百式は、喧嘩を売られれば買うことはしばしばあり、それが当然だと34歳の今まで信じていたものであり、目的が正しくとも手段を間違えば単なる犯罪者であることなどは、この裁判が始まるまでは考えようともしなかったのである。

この間違った考えを、俺はこの1年を通じて正してきたつもりだが、最終的には視点が低いせいか上記のような、どこか間違った落着点を求めることは多かった。

この携帯の問題もそうである。
下らん趣味のせいで、自分の部下にも累が及ぶようなことなのだから、交渉などを考える前に自分の罪を悔い改め、トータルで良い状況に行くようにものを考えるべきであろうよ。

見方を変えれば、八ヶ岳にやられたことに対して、被害を訴える資格も無いことになる。
なぜなら、自分の少年時代のいじめっ子であった過去を恥じるどころか、昔を懐かしむように楽しげに話すこともあるのだから。

いじめられたほうは、今現在の君のように、その過去を懐かしんでくれるのだろうか?
そう言い切れる恥知らずならば、八ヶ岳を追求する資格なぞ、百式には無いはずである。

百式の顔が上がる。
だが、すぐにうつむく。

俺も家庭環境がアレなので、色々と問題もあるのだが、少なくとも俺を可愛がってくれた祖父母のことを愚弄されれば、命がけで立ち向かう。
だが、それでもこいつはうつむくのだ。

「このまま見捨てるべきか、それとも、まだ手伝うべきか?」
二つの思いで心は揺れる。

見捨てることは、言い換えれば、あのようないい加減な会社に負けることも意味する。
だが、このまますんなり手伝うとしても、この根本的に間違った考えのままでは、社会の害悪を生きながらえさせる可能性も生じてくる。

俺は占い師だ。
判断に迷うときは、神々にお伺いを立てるのが一番である。
タロットも易も何も無いが、占う方法は、いや、神々にお伺いを立てる方法は一つじゃない。

良い酒さえあれば、事足りるのである。

百式を伴い、寮の食堂に入る。
カウンターで日本酒を頼み、茶碗に注ぐ。

お伺いを立てるときは来た。